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時代につなぐ ヒロシマ
2013年08月19日 (月) | 編集 |
今朝4時に目覚めた・・・なんかいつもより薄暗くてね、確実に夏は終わりに向かっているなあ~って感じたよ

今日の始まりは 新聞の記事から「継承シリーズ・時代につなぐヒロシマ」より


「原爆に遭ったことを隠し通しての苦しい生活でした。
68年経った今でも、不安な思いが消えることは、一日もありません」
とおっしゃるのは現在85歳のSさんです。

 私は、あのとき、17歳でした。
広島女子師範学校に入り、家族と離れて寮生活をし、学校の先生になりたいとの夢を抱いて頑張り始めたところでした。
 その日――1945年8月6日も、朝早くから蝉が鳴き、暑い一日が始まりました。
 登校の準備をしていると、警戒警報の嫌な鈍いサイレンが鳴り響きました。
防空頭巾をかぶり、薬・日用品・懐中電灯などを入れた非常袋を肩に掛け、防空壕へ入りました。
 やがて警報は解除になり、「良かったね」と皆が笑顔になりました。
これまで広島には大規模な空襲はなく、「これからもありませんように」と思いながら、防空壕から出てきました。
 授業のため2階の教室に入り、先生を待っていたその時です。
8時15分。
写真を撮る時の、あのフラッシュのような光が大きく、広く、強く、ピカッと光ったと思った瞬間です。
何がどうなったのか考える間もなく私は気を失いました。
どれくらい時間が過ぎたかわかりませんが、気がつくと、熱線と爆風で倒れた校舎の下敷きになっていました。
背中の上には、太い材木がズッシリ覆いかぶさっていました。
 体中が痛く、右上半身はすごく熱くてブヨブヨしているようでした。
「誰か助けて」とすがる思いでした。
隣にいた友達の名前を呼びましたが、返事はありません。
でも。どうにかして、ここから抜け出さないといけないと思い、一生懸命に動きました。
すると、ボンヤリと明かりが見えて、何とか抜け出すことができたのです。
 ところが安心したのも束の間、なんとも変わり果てた光景にビックリしました。
近くにあったたくさんの高いビルは無くなり、辺り一面が広場のようになっています。
街はどこに消えてしまったのでしょう。
 飛行機の飛んでくる音も、爆弾の落ちる音も、何も聞こえなかったのに、一瞬ピカッと光ったあの強い光だけで大変なことになってしまっていました。(Sさんは、爆心地から2キロの地点)
 
 我に返ると一人の先生が校舎のがれきの上に立ち、すごい顔で髪を振り乱して、生徒を一人でも助けようと
「東へ逃げろ~! 早く東へ!」と声を張り上げていました。
校舎の下敷きから這い出てこれた友人5人と一緒に東へ逃げました。
 学校の外に出て、またもビックリ。
息をのむ惨状が広がっていました。
地面に倒れてうめき声をあげる人。
顔中、血を流しながらフラフラの人。
半裸の状態で血を流しながらも子供の名前を叫んでいる母親。
全身をやけどして、泣きながら親を探す子供たち。
息も絶えて転がっている気の毒な大勢の人々。
布を下げたようにやけどで皮膚が垂れ下がり、「熱い、熱い!」「水を、水を!」と助けを求める人々・・・。
そんな中を一歩一歩、東へ逃げるより仕方ありませんでした。
 運よく通りかかった軍隊の救護所で応急手当てをしてもらい、それから随分東へ逃げました。
この辺り(現在の海田町)は家も倒れておらず、空気もきれいです。
しかし、大勢の負傷者や死者が運ばれてきます。このころから体中に痛みが出てきました。
息をするたびに肋骨が痛み、また首が痛くて頭を上げるのも辛くなってきました。
でも、休むことも大声で泣くこともできず、友達も何を思っているのか誰一人、しゃべることもなく、痛みと怖さを我慢しながら歩き続けました。

 あたりが薄暗くなったころ、目的地の海田市駅に着きました。
よく歩きました。
駅には勤め帰りの乗客、それに、私たちのように歩いて逃げてきた負傷者が増えるばかりです。
「広島にはどんな空襲があったのだろう」と、そこにいた人たちは心配そうに私たちを見ていました。
日もとっぷりと暮れたころ、ようやく待ちに待った汽車が来ました。
敵機に見つかるといけないので、明りをつけない暗闇の汽車です。
それでも、友達同士で「これで広島を離れることができるわね」と、ようやく会話を交わしました。
 汽車は本郷駅(現在の三原市本郷町)止まりでしたので、駅前の旅館にお願いして泊めてもらいました。
 友達は布団の上で横になれ、うれしそうでしたが、私は体中が痛くて横になれません。
椅子にもたれて休むことにしました。
電話を借りて、尾道の両親に連絡が付きました。
 朝が来ました。
朝一番の列車に乗り込みました。
ボサボサの髪、汚れた服、三角巾で吊っている右手――そんな姿が恥ずかしく、私は人目につかないよう隅に座りました。尾道に着くと、父が首を長くして待っていました。
この時が、これまでの人生で一番うれしかったように思います。翌朝7日の朝9時過ぎでした。
 早く帰りたいとの思いばかりで水も飲んでいなかったので、冷たい水の一杯がおいしかったこと。
生きていて良かったと、家族みんなで喜び合いました。

 原爆によるやけどは普通のやけどとは違います。
放射能を含んだ強い熱線によるものなので、肉までえぐられた個所からにじみ出る汁は臭みが酷く、夏の暑さの中、大きなハエがブンブンと近寄ってきます。
両親は「こんなひどいやけどでは助からないかもしれん」と、とても心配し、やけどに良いと聞いたことはすぐに実行しました。
 少しづつ傷も良くなり、1年経ったころには外に出られるようになりました。
私は校舎の中にいたので、この程度で済みましたが、体が良くなるまでは、むなしい、やるせない日々を送りました。
 その後も、広島には何十年も草木も生えないとか、原爆にあった人は長生きできないとか、悪い噂が絶えなかったので、自分が原爆に遭ったことを隠し通しての、苦しい生活でした。
68年経った今では、やけどの色も薄くなり目立たなくなっていますが、心の奥では「子供や孫に悪い影響が出ないだろうか」など不安な思いが消えることはありません。

「戦争を知らない若い世代の人たちに、こんな苦しみを味わわせてはならない!」と、今では少なくなった被爆者が体験を語り、戦争の悲惨さを伝え、平和な世界になることを願うのみです。

Sさんは85歳の現在、施設訪問ボランティアグループ「ともしびの会」の会長を務めながら、4世代8人家族で楽しく忙しい毎日を、送っています。



長い長い文章を読んでくださり、ありがとう




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