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いのちはつながれていく
2013年08月09日 (金) | 編集 |
昨日の新聞記事を読んで・・・思うことがある。

いのちをつなげていくということは 子孫を残していく事だけではなく

今を生きるこで苦難にぶつかったり 悩み苦しんだり、あるいは 天にも昇る幸せだったりと

そんな当たり前の日々を乗り越え、生きていくための失敗や成功・知恵を次に生きていく全ての命に

繋げていくというような意味を深く持つのではないかな~と


今日は昨日読んだ記事をご紹介するね。


  原子爆弾の投下から68年が経ち、被爆者の平均年齢が78歳を超えたいま。
  被爆体験の継承こそ核兵器廃絶のための喫緊の課題である。
 
  「あの忌まわしい記憶を思い起こすことへの精神的苦痛と闘いながら語り続けています。  
  悲劇を二度とくりかえさないためにー」と海外13カ国で証言している11歳の時に被爆したEさん。


  決して忘れる事の出来ない、1945年(昭和20年)8月6日。あの悪夢から68年になります。
  6日の朝、眼科へ行くため、バスに乗りました。
  10分くらいすると警戒警報、空襲警報が鳴り、バスから降ろされました。
  すぐに警報は解除になり、そのまま眼科へ歩いていきました。
  途中、履いていた下駄の鼻緒が切れたので、建物の陰で鼻緒を接げようとしたところ、おじさんが建物から
  出てきて、「暑いけえ~、中に入って接げんさい」と、麻のひもをくださいました。
  中に入り、鼻緒を接げていたその時です。
  ピカッと一瞬、のもすごく強い光に包まれました。
  まるで太陽が頭の上に落ちたかのような閃光と、同時に襲ってきた爆風と衝撃で、息も出来ません。
  苦しくて、苦しくて、”もう空気はいらん”と思いました。
  <Eさんは爆心地から1.5キロの地点で被爆した>
  われに返ると建物の下敷きになっていました。
  「助けて」と必死で叫びました。
  軍靴を履き、ゲートルがボロボロの、前掛けをしたおじさんが「どこじゃ」と言いながら、がれきをのけて
  手を差し伸べてくださいました。
  その手をつかむと、ズルッと皮がむけました。
  指と指を引っ掛け、引っ張りだしてくれました。
  「助かってよかった」と思うだけで、お礼を言えなかったのが今でも心残りです。

  私が助け出された時、まだ街は燃えていませんでした。
  暗いというか暮色というか灰色というか、異様な人影が動いていました。
  皆、ボロを着ているか、半分はだか。
  髪はグシャグシャで、今まで見たことのない人影です。
  私は状況が全く分からず、「ともかく家に帰らなければ」と思いながら、足は土手を下り、
  刑務所の方へ走っていました。
  火の手がどんどん追いかけてきます。
  泣きながら必死で走りました。
  やっと火の手が追いかけてこなくなりました。安心したせいか気を失いました。
  今、思うと、火から逃れられたのは、刑務所の厚く高い壁で遮断されていたからだと思います。
  遠くから「おーい、江波(Eさんの実家があった地名)へ帰るものはおらんか」と、渡し船の声が
  聞こえて気が付きました。
  顔見知りのおじさんでした。
  涙がポロポロと出ました。  本当にうれしかったです。
  船には何人か乗っていました。皆、黒く、大きく、変な顔。 顔は爆発したようになっていました。
  若者はおらず、おじいさん、おばあさんばかりでした。
  船に乗り、顔見知りのおじさんに「Eよ!」と言いましたが、わかってもらえませんでした。
  私もおばあさんのように見えたからだと思います。
  建物のがれきから私を助けだしてくれたおじさんも、青年だったかもしれません。
  前掛けに見えたのは、やけどで垂れ下がった皮膚だったと思います。

  やっと、我が家に辿り着きました。
  家には誰もいませんでした。
  近所のおばさんに会うことができました。
  私の体にはたくさんのガラスが突き刺さっていたので、おばさんが陸軍病院へ連れて行ってくれ、
  大きなガラスだけ取ってもらいました。
  その後、母や弟たちと会えました。
  夜になってまた、空襲警報が鳴りました。
  兵隊から「防空壕は危ないから山へ逃げるように」と指示されましたが、もう誰も動くことができませんでした。
  その夜は町が燃え続ける炎で昼のように明るかったです。
  一晩中、人のうめき声や、叫んでいる声・・・何がどうなっているのかわかりません。
  怖い怖い6日の夜を過ごし、7日の朝を迎えました。
  防空壕の外を見るのも怖く、母に寄り添いながら、恐ろしく長い1日1日を送りました。
  ひどい下痢が続き、髪が抜け落ちました。
  弟たちも同じだったので恥ずかしいとも思わず、人から聞かれると「ピカドンに食べられた」と言っていました。
  8月15日、終戦を迎えましたが、被爆者は皆、下痢や発熱、耳や歯茎、鼻から出血し、体中に斑点が出たりと
  フラフラでした。
  外面的には無傷だった人が朝起きてみると突然、体中に斑点が出て、冷たくなっていたり、元気だった人が
  急に耳や鼻、口、歯茎から血を吐いて亡くなっていきました。
  本当に考えられない状況の連続でした。
  被爆から10年あまり、私は入退院を繰り返しました。
  それでも少し元気になり、23歳の時に結婚しました。
  62年、体が起き上がれない状態に。
  血小板減少症と診断されました。  
  69年には原爆白内障となり、失明すると言われました。
  その後も、人生の嵐は次々と襲ってきました。
  虚血性心疾患。極度の貧血・・・何度も何度も倒れました。
  また、被爆した時に身体に残ったガラス片は時折、チクリと痛がゆさを伴い、膿と一緒に出てきました。
  そのガラスはチョコレート色をしていました。
  何度も出てきましたが、77歳を最後に出てこなくなりました。
  2005年には、甲状腺がんで手術を受けました。

  語り部活動を続けて28年ー
  あの忌まわしい記憶を思い起こすことへの精神的な苦痛と闘いながら、証言を続けてきました。


と言われるEさん。

Eさんは「被爆を体験した私にしか語れないものがある。
     二度と悲劇が繰り返されないよう伝えていくのが、私の使命」と書かれました。
Eさんはまた13カ国14会場で証言を行い、世界の人々に被爆体験、核の恐ろしさを伝えていらっしゃいましすが、一番身近なところから語っていかなければなと思われるそうです。

昨日 この記事を読んだ私は深く感じるものがあります。

平和は自分で作るものだと感じます。

このブログを読んで下さった方が 身近なところでどなたかと話をしてくださることを願います。

長い文を読んで下さり、ありがとう




  
  
  
  




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